経済・経営のニュースを取り上げる、百計ONLINE。

経営NEWS-百年の計

日本建築、寝殿造り、書院造りなどから学ぶ日本の文化


Japanese architectures
(写真=PIXTA)

日本家屋の歴史を探る

 今も残る文化財級の格式ある日本家屋。それらの建物は、当時の政治や文化、暮らしなど、さまざまな要素を取り込んで日本独自の様式や工法へと結実した。現代の日本家屋の中には、それらの伝統を受け継いでいる例も少なくない。また、それら古来の日本建築の結晶といえる寺院・神社やかつての武家屋敷などは、日本だけでなく海外からも大きな注目を集めている。

 その流れを大きく区分すれば、寝殿造り、書院造り、数寄屋造りの3つになる。まずは悠久の歴史の流れの中に佇む、それら日本建築のこれまでの歩みを振り返ってみよう。

貴族のための上品・繊細な建築様式 〜寝殿造り

 寝殿造りと呼ばれる建築様式が確立したのは平安時代。当時の上流階級、つまり貴族が住んでいた屋敷の様式だ。奈良時代の重厚さとは異なり、寝殿造りには自然との調和を重視した「上品」かつ「繊細」といった特徴がある。

 中央に「寝殿」と呼ばれる「主殿」があり、屋敷の主人はここに居住した。「寝殿」の東西両側には「コ」の字形に「対殿」が配され、それぞれの屋敷は「西対」、「東対」と呼ばれた。各部屋は長い廊下で囲われ、屏風やすだれで仕切られていた。主殿には儀式や舞の舞台、その前には広い庭や池がつくられ、船遊びのための「釣殿」という家屋が設置されることもあった。一つの屋敷には、20人から30人ほどの貴族が住んでいたといわれている。

Japanese architectures2
(写真=PIXTA、中尊寺)

 平安時代に貴族が住んでいた寝殿造りの最大の特徴は、「上品」かつ「繊細」なことだ。この時代の寝殿造りは、自然との調和を重視して建てられている。平安時代は和歌に代表される四季折々の豊かな自然を詠う風雅な文化が花開いたが、寝殿造りの屋敷内にさまざまな樹木やため池が存在するのも、そうした文化傾向の現れだろう。つねに自然を感じる佇まいは、まさに風雅を尊んだ当時の貴族階級の美意識が産んだ産物といえる。

 また、この時代の寝殿造りの代表的建築物としてたびたび紹介されるのが寺院だ。なかでも平安時代の寺院を語る上で欠かせないのが、世界遺産にもなっている「中尊寺金色堂」である。建物全体に金箔が貼られた華やかな造りは、奥州藤原氏の権力を物語っている。

 当時、多くの寺院は「浄土信仰」の影響を受けていたが、庭園内には「極楽浄土の宮殿」をイメージした池などが造られていた。代表的な建物としては、岩手県の毛越寺などがある。貴族の寝殿造りは、こうした寺院の建築様式を参考にしたという説もある。当時の貴族文化が、仏教の影響を色濃く受けていた証左ともいえるだろう。

● 寝殿造りの代表的建物
 平等院鳳凰堂
 京都御所紫辰殿
 中尊寺金色堂
 毛越寺

格式・様式、身分序列を重視した建築様式 〜書院造り

 書院とは「書斎」のことで、日本の室町時代から江戸時代初頭にかけて成立した住宅様式だ。寝殿造りが主人の寝殿を中心とした屋敷だったのに比べて、書院造りは書院を建物の中心にしている点が特徴である。書院のある主室には、畳敷きの二畳程度のスペースに書見のための机、明かり採りの窓、押し板、棚、納戸等が設けられた。

 寝殿造りでは個々の部屋は開放されていたが、書院造りは襖、障子などの間仕切りが発達し、畳を敷き詰めた「座敷」、「付書院」など、機能や役割別にさまざまな種類の部屋が生まれている。また座敷には高低差がつけられ、高い方を上段、あるいは上々段と呼び、低い室を下段と呼んだ。これにより席による階級差が示され、加えて壁には淡彩や濃彩の障屏画が描かれ、上段に座る高位者の威厳の高さを示すようになった。

 柱も寝殿造りでは円柱だったが、書院造りでは角柱と変化する。これら床の間、付書院、角柱、襖、障子、そして雨戸、縁側、玄関も書院造りから生まれた。その意味で、書院造りの各要素は、もっとも多く現代の和風住宅に受け継がれている。

Japanese architectures3
(写真=PIXTA、掛川城二の丸御殿)

 鎌倉時代以降、政治や文化は徐々に武士階級によって主導された。書院造りはもともと「武家造り」とも呼ばれていたように、武士にとって大切な「書院」を建物全体の主室とする住宅様式だ。

 当初はプライベートな居室のある建物を指すものであったが、時代が下るにつれ、書斎から接客のための広間、さらに儀式の場へと発展した。背景には、武士の社会的地位の向上にともない、公的空間としての重要性が高まったことが見受けられる。また一般の武士階級の間でも、身分序列の差を意識づける接客空間として活用された。

 書院造りの代表的な建物としては、書院の成立や各部屋の機能分化が認められる銀閣寺東求堂などがあげられる。また時代が進むと、掛川城御殿のように床の間のある「座敷」が定型化し、これは現代にも継承されている。そして、一般庶民の家にも書院造りは普及した。とくに戦国時代後期からは商業の発達にともない、特に富商の間で武家にも勝るような立派な「書院造り」が登場した。一方平民が住む町家では、平屋建て、板葺き屋根など、書院造りながら非常に簡素なものも数多く建設された。

● 書院造りの代表的建物
 銀閣寺東求堂
 慈照寺同仁斎
 園城寺光淨院客殿
 西本願寺白書院
 掛川城御殿
 大分杵築藩家老「大原邸」
 二条城二の丸書院

茶室から発展した質素・洗練の建築様式 〜数寄屋造り

 数寄(すきや)とは和歌や茶の湯・生け花などの風流を楽しむこと。つまり「数寄屋」とは「好みに任せて作った家」のことで、転じて「茶室」の風を取り入れた住宅様式のことを数寄屋造りというようになった。数寄屋造りが生まれたのは、安土桃山時代。当時はまだ書院造りが主流だったため、小規模 (多くは四畳半以下) の茶座敷を「数寄屋」と呼んでいた。

 数寄屋造りの建材や意匠は、書院造りと比べると質素ながら自由、かつ洗練されている。建材は、柱や床板には竹や杉丸太、床柱や床框には紫檀などの奇木、板材には桑の一枚板が使われることが多い。工法は、一見素朴だが高度な丸太普請と呼ばれる丸みを残した面皮柱を使用。壁も白壁は採用せず、原則として土壁仕上げで、そのため左官技法も多彩に発展した。庇は長めで、内部空間に深い静寂をもたらしている。襖や障子のデザインにも工夫が凝らされ、後年は板硝子という新たな材料も採用された。その他、雪見障子や猫間障子、組子障子など、数寄屋造りには多彩な職人の技術の粋を見ることができる。

Japanese architectures4
(写真=PIXTA、小泉八雲旧居)

 数寄屋造り建築は、書院建築が重んじた格式・様式などを極力排しているのが特徴だ。虚飾を嫌い、内面を磨いて客をもてなすという茶人たちの精神性を反映し、質素ながら洗練された意匠となっている。こうした様式はその後「わびさび」、「きれいさび」と呼ばれ、日本文化を語る上で欠かせない要素となる。

 数寄屋造りに用いられる建材も、当初は庶民の住宅に使われる粗末な材料や技術をこだわりなく採用した。数寄屋造りの原点ともいえる妙喜庵待庵の草庵風数寄屋(茶室)造りは、荒壁に囲まれたわずか二畳の部屋。利休のめざした究極の「ワビ」「サビ」の世界が広がっている。

 ただし時代が進み、とくに江戸時代以降は茶室から住宅などへ普及が進むにつれ、数寄屋造りにも高価な材料、高い工法技術を用いる例も出てくる。代表的な建物として知られるのが、「桂離宮」だろう。桂離宮は書院造りの格式を外しながらも、天守、広間、床の間、違い棚、縁側や濡れ縁など、細部にわたって凝った意匠や隠れた高度技術を用い、趣深い雰囲気を醸し出している。

 現在では数寄屋造りは特に高価で、高度な技術を要する高級建築の代名詞になっており、一部の豪邸を省き一般住宅に継承されることは少ない。ただし料亭などでは数奇屋様式を取り入れた建物を見ることができる。

● 代表的建物
 妙喜庵待庵
 桂離宮新書院
 修学院離宮
 伏見稲荷大社御茶屋(重要文化財)
 曼殊院書院
 小泉八雲旧居

現代によみがえる古えの技と暮らし

 歴史が育んだ文化が重層的に積み上がっている日本では、建築様式を見ても、その時代時代のさまざまな政治的、文化的背景やその時代特有の匠の技を知ることができる。

 機会があれば、ぜひ上に紹介した各様式の建築物などを実際に訪れていただきたい。いまに継承される匠の技の原点を知り、当時の人々の暮らしに思いを馳せるのも、また一興だろう。
 

TOP