創業した160年前に海老名にあったはずの農業を中心とした地域の循環を取り戻す―。酒造りを超えて広がる泉橋酒造の挑戦

神奈川県のほぼ中央部に位置する海老名市。東名道と圏央道が交差し鉄道が3路線乗り入れる交通の要衝であり、最近では駅周辺に新しいショッピングモールがオープンするなど、再開発の気運が非常に高まっている。

一方、相模川が形成した河岸段丘の底面に広がる平地は“海老名耕地”と呼ばれ、古くから稲作が盛んに行われてきた。今も商業と農業が共存する、活気あふれる街である。

今年、創業160年を迎えた泉橋酒造。その蔵は、海老名の市街地と水田のちょうど境目の位置にある。大きな酒林が下がる趣きのある母屋は明治時代からのもの。関東大震災で一部損壊したというが、その後修復し、現在も代々の当主の住まいとして使われている。江戸時代からの蔵も残るなど、まさにこの地域の歴史を見つめ続けてきた酒蔵である。

現在の社長、橋場友一氏は6代目。米の生産から醸造まで一貫して手がける試みなど、独自のアイディアと行動力により、会社の業績を大きく成長・安定化させることに成功した。

「日本酒と言えば斜陽産業」の先入観から一転し家業へ邁進

「2代前の祖父の時代は非常に困難が多かったようで、関東大震災の時は本当に大変だったと聞いています。自宅とその裏の小さい土蔵以外はすべて地震でつぶれたそうです。

もうひとつは昭和20年。戦中戦後の企業整備令により酒蔵の数が減らされ、うちもその影響を受けて酒造りをやめました。復活したのは昭和31年のことです。その間、祖父は酒の問屋に勤めていたそうですが、晩酌の時はいつも“自分で作った酒が飲みたい”と言っていたそうです。たいへん苦労したでしょうし、復活に際しても期するところがあっただろうと思います。」

友一氏も学生時代から家業を手伝い、大学の卒業論文では将来の事業承継に備え清酒業界の状況や問題点を調べ上げた。だが、かといって卒業後すぐに家業を継ごうと思っていたかというと、そうではなかったという。

「高校までは、とにかく家を出たいと思っていたんです。当時の日本酒のイメージといったら斜陽産業そのものでしたからね。海外で活躍するとか、日本を背負って立つとか、今思えば青臭いことを夢見ていました。大学生になってからは後を継ぐことを決意しましたが、いずれ継ぐことになるとしても一度は外の世界を経験したいと思い、証券会社に就職しました。」

社会人となって3年ほど経ち大阪に勤務していた平成7年、阪神大震災が発生。それを機に家業へ戻ることを決意する。折しもこの平成7年は、それまで米の自由な流通を制限していた食糧管理法が廃止され、新たに米の自主流通を可能とする食糧法が施行された年。この法律改正も、彼にとっては転身へと背中を押すきっかけのひとつとなったという。

「うちは今でこそ米作りを積極的に行っていますが、実は父親も米作りに挑戦していた時期があったんです。でも、当時は法律の壁があって、作った米をお酒にできなかった。そのお米をやむなく家で炊いて食べるんですけど、お釜を開けた瞬間、酒にできなかったという“負けた感”が食卓に漂ってくる。今考えれば、そんな記憶もお米を自家栽培にした理由のひとつなのかもしれません。」

全量純米酒への転換と、米作り 危機感から生まれた2つの革新

入社当時、日本酒業界は大きな転換期に突入していた。郊外の大型店やディスカウントストアの台頭に加え、コンビニエンスストアやドラッグストアでも酒の販売が始まり、大事な取引先だった昔ながらの地元の酒屋が次々に店を閉めていった時代。“会社を大変身させなければ生き残っていけない”という危機感の中でのスタートだったという。

そこでまず出てきたのが、 “造る酒をすべて純米酒にする”というアイディアだった。

「戦時中、酒税を増やすためにアルコール添加物を足した酒が全国で大量に作られましたが、このことは戦後、日本酒人気の低下を招くことにもなりました。しかし、時代が変わり、お客様の好みも変わる中、これからは完全に純米酒の時代が来るという確信がありました。

実は、先代である父は大吟醸を県内の酒蔵で一番早く作り、また純米酒の割合を増やした時代もありました。昭和50年代から60年代にかけてのことです。まだ純米酒という言葉が広く知られていなかった時代にあって、先駆的だったと思います。それを、私の代で本格的にやろうと考えたわけです。

純米にすることで生産量は減りますので、社内には反対意見もありました。私が戻ってきた時の生産量は一升瓶で13万本くらいでしたが、純米への切り替えの過程では一時は年間6万本を切り、会社の売上が2/3に縮小した時期もあります。今は10万本ほどの製造ですが、売上は当初の倍にまで成長しています。」

もうひとつのアイディアは、法律が変わったことで可能になった“米からの酒造り”である。

「田んぼは、先代の時に所有していたのが0.5ヘクタール。今では借りている田も含めると7ヘクタールに、農家さんと協力して栽培しているものも合わせると42ヘクタールになります。これは、海老名の田んぼの15%以上に相当します。この田んぼで、さまざまな酒造好適米を農家と協力して栽培しています。」

こうした取り組みの中で、友一氏の中にはある感覚が芽生えてきたという。そこには、地域に必要とされる会社であるための決意や想いが滲んでいる。

「酒造りよりも農業をやっているという考え方で取り組んでいます。そもそも酒蔵というのは、地元の農村経営をまわしていくひとつの“装置”だと思うんです。米を作って、食べて、そこから年貢も払って、それで余った米を使って、米相場の維持をし、村の人たちが飲む酒を造っていたのではないか。そして、うちがたまたまその役割だったというだけの話だと思うんです。どんな資料をひっくり返しても、そんなことはどこにも書いてありませんが、お米作りから酒造りを担っていくうちに、そういう想いが強くなりました。こうした米作りの中での地域の循環を取り戻していきたい。だから、ラベルも田んぼをイメージさせるトンボの絵柄にしたんです。」

自分の代ですべてやりきるのではなく頑張る楽しみを次の世代にとっておきたい

今、泉橋酒造では、さまざまな角度から“本当にうまい酒造り”の極意を導き出そうとしている。

「相模川流域の海老名・相模原にはまだまだ良い田んぼがたくさんありますから、米の種類や水質だけではなく土壌によっても味が変わるのかなど、この地域だから出せる味の科学的な研究を、県の産業技術センターや農業技術センターと協力して行っています。それを農家さんにフィードバックすることで、品質向上につなげていきたいですね。

製法に関しては、全体の半分は“生酛造り”と呼ばれる昔からのナチュラルな製法を取り入れています。機械のほうが優れているところは機械でやりますが、すべてを機械化すると味気なくなってしまう。手作りの大変さ、大切さ、そして楽しさをあえて残そうと思っています。」

入社して20余年。社長に就任してからはもうすぐ10年が経つ。まだまだ若手経営者と言っていい世代だが、同時に、後継の問題に取り組むべき時期にも差しかかっている。

「経営者の顧客となるのは経営者の年齢の前後15歳程度だと言われますから、この先は若い世代が補ってくれればいいと思っています。長女はいま大学4年生。この仕事を継ぐ気持ちになってくれているようですが…。だから今は、自分の代で全部やってしまおうと思わず、頑張る楽しみを次の世代にとっておいてあげてもいいかな、とも思います。それよりも、継ぎたくなるような会社、“継ぎたい”と言ってくれた時にスムーズに受け入れてあげられる会社にすることのほうが重要ですね。子どもが継いでくれないような会社では、働きやすい会社とは言えないと思いますから。」

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