第六回横浜開催レポート

2017年5月22日(月)第6回目の開催となる「THE EXPO~百年の計~ in 横浜」が神奈川県横浜市の横浜ロイヤルパークホテルにて開催されました。

「THE EXPO~百年の計~」は、これまで長寿企業が培ってきた歴史と経験の中から、100年企業が独自に持つ”哲学” “歴史観” “文化”を学び、「正しい判断基準=企業の姿勢」と向き合う機会を提供するイベントです。”事業継続性”をテーマとしたパネルディスカッションをメインプログラムに、地域活性化のために、優良企業間のコミュニケーションの場を提供するための、懇親会も開催しています。

プログラム

第1部:後藤俊夫氏「(一社)100年経営研究機構 代表理事」による基調講演
    100年企業によるパネルディスカッション
第2部:交流会

基調講演

ファミリービジネスの企業こそ日本経済の主役である

近年世界的な注目を集める日本の長寿企業。その事業継続の秘密はどこにあるのか。
長寿企業、ファミリービジネスについて長年研究を続ける後藤氏が、貴重な研究データをもとにその秘密・秘訣を語る。


一般社団法人100年経営研究機構 代表理事 後藤俊夫 氏

私は1999年より「企業持続」というテーマで研究を続け、長寿企業の魅力に魅せられ今に至っております。しかし、研究を始めた当時は、日本に長寿企業がどれだけあるか誰も知らない、国にも統計がないという状況で、まずは国内のデータベースを作るところからスタートしました。

 その研究の中での、ひとつの大きな発見。それは、日本における長寿企業のほとんどはファミリービジネスだということでありました。みなさんはもしかしたら、ファミリービジネスという言葉にあまりいいイメージをお持ちでないかもしれませんが、実は海外ではまったくその反対であり、しかも日本のファミリービジネスに対する海外からの関心が近年たいへん高まっています。

コロンビア、ポーランド、フィリピン、インドネシア、中国など、さまざまな国の事業の後継者が、「長寿企業を学びたい」「経営者の話が聞きたい」とおっしゃいます。

 そこで現在は、このファミリービジネスの観点から企業持続の秘訣を明らかにしようと研究をしているところであります。

データで見る神奈川県の長寿企業

さて、2014年現在、日本で100年以上続く企業は25,321社。200年以上の企業は3,937社、300年以上は1,938社と続き、1,000年以上続く会社もなんと21社を数えます。

 神奈川県において一番古い会社は1288年創業、鎌倉市で刃物製造を手掛ける正宗工芸美術製作所で、全国で59番目の長い歴史を誇っています。100年以上で見ると県内に1,029社。都道府県別で全国7位の数です。全国的に見ても、老舗が多い県だと言えます。

 自治体別で見ると、やはり横浜市が突出して多く354社、その他、小田原市が85社、藤沢市が66社、鎌倉市が47社、川崎市が45社などとなっております。

 神奈川の老舗企業のあゆみにおいては、歴史的に非常に重要な節目がいくつかあります。ひとつは鎌倉幕府の開府です。約150年にわたり日本の中心地として栄えた名残りが、刃物や石材の企業の存在に見て取れます。

室町時代から江戸時代にかけては小田原、またその隣の箱根が、交通の要衝であり、難所として重要な役割を果たしました。幕末に近い天保13年、1842年には、小田原に旅館が103軒あったそうです。そして、幕末にはペリーが浦賀にやってきます。

武士の時代が終わり、何もない漁村だった横浜が急速に脚光を浴びて、近代的な産業が横浜から日本全国に広がっていくわけです。

 幕府、城、関所、文明開化、港など、常に日本の中心となる動きがあったわけで、まさに神奈川の長寿企業のひとつひとつにドラマが読み取れます。

事業継続のための「6つの定石」

私は、企業が100年続くためには6つの定石があると考えています。まず1つ目は、経営における長期的な視点。2つ目は身の丈経営。3つ目は自己の優位性を徹底的に強化し経営のコアコンピタンスがぶれないこと。4つ目は利害関係者との長期関係性の構築。例えば親子3代にわたり働いている社員がいたり、代替わりしても続く取引先があったりということです。5つ目がリスクマネジメント。そして6つ目は、事業承継への強い決意でございます。

 これらの最も大事な礎は、「企業は社会の公器」という考え。これは日本独特の言葉であり、英語に訳して学会で発表する場合に非常に苦労しますが、つまり企業というものは社会のお役立ちであるということです。こういう日本固有の発想があることこそ、日本が長寿企業を作ってきた重要な要素だと考えています。

 そしてこの背景には、日本における3つの思想が大きく影響していると思います。大陸から入ってきた仏教、儒教、および日本古来の神道です。これがうまく融合し、その中において、道を究めること、高みを目指すことが尊ばれ、そこから職人精神が生まれた。このあたりが、長寿企業大国を形作った秘密と言えるのではないでしょうか。

ファミリービジネスに学ぶ意識を我々はもっともつべきである

ファミリービジネスというと、日本ではどうしてもマイナスなイメージがありますし、当事者である経営者のみなさんもそれを公言しない傾向がありますが、ファミリービジネスの方々は日本経済の主役であると私は強く思っています。

その誇りを胸に、その良い点を充分に生かし、社会に評価される存在となって100年続いて頂きたいと思いますし、もっともっと老舗に学び、称え、関わっていくことが、我々には必要ではないかと思っています。

パネルディスカッション

百年を越える長寿企業に学ぶ、事業継続性の極意

パネリスト

岩井の胡麻油株式会社
代表取締役社長 岩井 徹太郎 氏

泉橋酒造株式会社
代表取締役 橋場 友一 氏

TOMAコンサルタンツグループ株式会社
代表取締役 藤間 秋男 氏
ファシリテーター

ユニバーサルデザイン総合研究所所長
科学技術ジャーナリスト
百年の計実行委員会
実行委員長 赤池 学 氏

パネルディスカッションには3つの100年企業が登壇したが、うち2社はくしくも共に今年が創業160年。ファシリテーターの赤池学氏による挨拶のあと、横浜市の沿岸部、現在コットンハーバーと呼ばれる再開発地区の一角にある岩井の胡麻油株式会社の8代目社長、徹太郎氏が語った。

「当社は千葉県の佐倉で創業しまして、明治26年に横浜に出て参りました。実は胡麻というのは当時からほぼ輸入に頼っておりまして、そうなると輸送コストの面から港に近い立地のほうがいいということで、3代目の時に横浜に移ったわけです。当時の横浜は開港の景気に沸いていて、これはもう横浜以外にないということになったようで、それから120年以上、横浜の地で事業をしております。

ある時期は菜種や落花生の油も搾っていましたが、明治の末からは胡麻油一筋。昭和45年には社名を「岩井製油」から「岩井の胡麻油」へと変更しました。これはうちの父が、自分が死んだあとに他のことに手を出して失敗をしないようにと、そんな意味もあったようですが、当時は社名に”の”がつく会社が珍しく、”味の素と岩井の胡麻油と、日本で2社だけだ”と、そういうことを父が私に自慢げに語っていたのを覚えています。」

続いては、海老名市の酒蔵、泉橋酒造株式会社。戦後の酒蔵のあり方にとらわれず、地域と酒造りが密接に関わりあっていた古き良き時代を取り戻す独自の取り組みで注目されている。現社長の友一氏は6代目にあたる。

「うちの家は、かつては農業で地元を取り仕切るような存在だったようです。”泉橋”という名前は、もともとうちの敷地に泉川という田んぼの用水路代わりの川が流れていまして、その泉と橋場の橋をかけて”泉橋”となった。まさに地元の農業を背景に生まれた酒蔵なんです。

 初代は酒蔵をやりたいけれど親が認めてくれなくて、27歳の時にハンガーストライキまでやって親を説得したそうです。その話が”親が何と言おうと自分がこれだと思うことはやりとげるべき”という教えとなって、今も我が家に残っています。」

そしてもう1社、神奈川にルーツを持ち東京で127年の歴史を誇るコンサルティングファーム、TOMAコンサルタンツグループ株式会社から、5代目にあたる代表取締役の藤間秋男氏が登壇した。

 「私どもの初代・藤間秀孝は江戸末期に茅ヶ崎で庄屋をやっていた藤間善五郎という人物の子孫だとされています。その人物が東京に出て、まだ東京駅ができる前の丸の内付近で、裁判所にやって来る人たちの代書屋をやっていました。まだ字が書けない人も少なくない時代の話です。これがまさに今でいうところの司法書士であって、それが当社の事業のもとになっています。

養子で入った二代目は非常に商才があって、当時革新的だったタイプライターを導入して、司法書士として財閥系のお客様からずいぶん仕事を頂いたそうです。また、登記の書類を提出してそれが上がってくる1時間ぐらいの時間をつぶせる”登記茶屋”という店を開いて、これが非常に繁盛したと聞いています。」

守ってきたもの。革新したもの。

 自社も長寿企業であり、また長寿企業のコンサルティングとしても多くの実績をもつ藤間社長は、企業における事業継続に必要なものをこう語る。

「事業には、変えていいものと変えていけないものがあります。日々革新する技術に対応して生産体制を変えたり、インターネットを駆使した販売方法を構築するといったことは、時代と共に必要な変化だと思います。

 一方、変えていけないものは経営理念です。時代時代によって言葉や表現を進化させることはあっても、その核の部分まで変えてしまうと、その理念に共鳴していた社員が方向性を見失うことにもなりかねません。」

その点で、岩井の胡麻油の商品づくりのこだわりは一貫している。12年前に新工場が完成し技術は革新したが、その根底にある味の追求は、創業時からまったく変わっていない。

「当社では圧搾法といわれる昔ながらの方法で油を搾っています。また、胡麻油に息を吹き込むために非常に大事な “焙煎”の工程においては、毎朝ベテラン社員が胡麻の煎り上がるパチパチという音を耳で聞き、潰して色を見、食べて味をチェックして、必要に応じて焙煎の温度と時間を調節しています。これは創業以来変わっていません。

 焙煎のあとも、あら濾ししてタンクで2週間寝かせ、不純物が沈んだきれいな上澄みを濾過して、最後に1ミクロンのフィルターでさらに濾過をして製品にしています。このことが、当社ならではの風味・うまみ・コクにつながっています。胡麻油一筋にやっていたとことと、化学的な製法を一切用いないことが、長生きのひとつの理由ではないかと思います。」

 一方、泉橋酒造の取り組みは原点回帰ともいうべきものである。酒造りに使うほぼすべての米を自社で栽培する”栽培醸造蔵”。これは全国的に見ても珍しい取り組みである。

「戦後は日本の経済の拡大と共に酒が多く消費され、酒蔵も地元の酒屋さんにお酒を卸していれば商売が成り立っていました。しかし20年ほど前に酒販免許の自由化があり、スーパーやコンビニ、ディスカウントショップ、ドラッグストアなどでもお酒が売れる時代になりました。そういったお店には全国的に知られるブランドのお酒が多く並びますので、地域の酒蔵は既存のやり方では商売が成り立たなくなったんです。地酒というと今でこそいいイメージですけど、昔は低く見られていましたからね。

 そんな中、1995年に食糧管理法という法律の改正でお米の流通が自由化されて、自分の家の田んぼでお酒が作れるようになったんです。さらに2009年からは株式会社も農業ができるようになった。それなら自社で作る酒は自社や地元の農家さんの米で作ろうということになったわけです。現在では、使用する米の9割が自社または地元の農家さんの米です。また、酒造好適米である山田錦の神奈川での生産量は昨年度全国20位ですが、それはすべて当社の田んぼで作られています。」

経営の危機をどうやって乗り越えたのか

100年を超える歴史の中においては、多くの困難や危機に見舞われることも決して珍しくはない。各社にとって、その危機はどのように訪れ、それをどうやって乗り越えたのだろうか。

「震災、戦争、また油を扱っていますから火事という危機もありましたが、最大の危機というのは、製品の品質の良さに胡坐をかいて営業を怠ってしまったことではないかと思います。うちの油は質がいいから黙っていても売れるだろう、うちの品質がわからない人には買ってもらわなくていい、そんなふうに天狗になっていた時期があったんです。ちょうどインスタントラーメンが市場に出始めたり、いろいろなドレッシングが発売されたり、そういう時期に怠けてしまった。私は56歳で家業に戻ったんですが、当時は8期連続の赤字でした。

 私はそれまで伊勢丹に34年務めていまして、そのうち10年は海外での勤務でした。そこで、伊勢丹で学んできたことを岩井に取り入れたんです。家族経営というのは良くも悪くも制度や決まりごとがない場合が多いと思いますが、当社もそういったものがあまりありませんでした。そこで、再構築プランを作ったり、朝礼を始めたりと、内側からいろいろと手を打って改善に取り組んだのです。」(岩井社長)

「ひとつは関東大震災の時。母屋と小さい蔵を除いて建物が全部倒れたそうです。その時、たまたま蔵に米が残っていて、がれきをかき分けて取り出した米で地域の人々のために炊き出しをやったという話を聞いています。もうひとつは昭和20年から30年まで、企業整備令で酒蔵を閉じなければいけなかったこと。やりたい仕事ができず、先々代は非常に苦労をしたと思います。

 私の時代で一番のターニングポイントとなったのは、全量純米酒に転換したことです。すべてを純米酒にすることで生産量は落ちるので、一時的に売り上げが減ることは予測できたのですが、時代のニーズを考え思い切って決断しました。実際、一度は3分の2ほどに売り上げが減りましたが、今では全量純米酒にする以前よりも売り上げが伸びています。」(橋場社長)

「当社もやはり戦時中は大変苦労したようです。資格がないとできない仕事なものですから、戦争で資格のある人が兵隊に行ってしまうと何もできないわけですね。そういう背景から、私の使命はいろいろな資格を持った人たちを集めてワンストップで対応できる組織を作ることだろうと考え、公認会計士、弁護士、税理士、社会保険労務士、司法書士、行政書士、中小企業診断士、不動産鑑定士、コンサルタント、それらを集めた200名の集団を作っています。」(藤間社長)

これからの100年、200年に向けて

長く続く企業を受け継ぐ者として、彼らはこの先にどのようなビジョンを持ち、またどう承継することを考えているのだろうか。
 岩井社長は、海外勤務の経験を踏まえたリベラルな発想をもとに、こう話した。

「時々ふと、ブランドさえ残れば会社を売ってしまうという考えもありかなと思うこともあります。私はパリに5年いましたが、フランスでは、ブランドを高めて会社を育て、会社を高く売って、そのお金でフロリダなどに移住して余生を過ごすという社長が多いんです。事業承継という意味では、もともと私自身もまったく家を継ぐ気はなかったので、時々ふとそれを思い出します。

 しかし、継ぐと決めた時には母親も非常に喜びましたし、父の晩年を思い出すと、「やっぱり継がせたかったんだなあ」と思うことも多々ありますね。

 会社としては、地域貢献をどうやっていくかを考えています。当社は横浜の地域貢献企業の最上位に認定されていまして、地域の小学3年生の社会科の授業にうちの工場見学が組み込まれているのですが、その時に胡麻の種を配るんです。それを学校で植えて、育った様子を送ってくれることもあります。そのような、当社だからできうることを地域社会と一緒に続けることが必要かなと思います。」

橋場社長も、地域との関わりの大切さを挙げる。

「酒を造っているというより、地域の農業経営をやっている、その延長に酒造りがあるというイメージです。米作りをやめる農家さんが多い中、その田んぼを引き継いで、そこで付加価値の高いお酒を造って、地域の農業をまわしていく、これが重要な仕事だと思っています。

 事業承継においては、子供が40歳になったら代を譲るという考えが家の中にあります。もちろんその後も会長として会社に残るのですが、自分が元気なうちに交代したほうが会社のためにも次の代のためにもいいのではないかと思っています。」

 最後に藤間社長が、自身の経験を踏まえつつ、コンサルティングの観点から事業継続に必要なものを語った。

「私は小さい頃からよく父親の手伝いで会社に行きました。手伝うとお小遣いがもらえたからなのですが、私が知っている老舗企業の多くは、私と同じように小さい頃から自分の会社に親しませていることが多いようです。

特に昔は職住が一緒で親の仕事がよく見えたのだと思いますが、その経験がない中で突然”継ぎなさい”と言っても難しいのではないかと思います。ですから、自らの仕事を見せるという努力が、これからの経営者には必要になって来るのではないかと思います。」

パネルディスカッション終了後、場所を移して開催され第二部では懇親会を開催。当日の登壇者を交えながら、神奈川経済の将来を担う経営者たちの熱気で会場は大いに盛り上がりました。

百年の計

イベントスケジュール