「三方良し」で皆ハッピーに!近江商人の教え

(写真=PIXTA)

日本最大の湖である琵琶湖を抱える滋賀県。関西圏の中でも、大阪や京都などに押されて、ビジネス的なイメージが湧きにくいという方もいるかもしれない。「平成24年就業構造基本調査」を元にした人口あたりの起業家数では、全国ワースト1位という不名誉なデータもある。

しかし、滋賀県が近江の国と呼ばれていたその昔、近江商人といえば優秀な商人(あきんど)の代名詞だったのだ。今回は、滋賀県生まれの百年企業、伊藤忠(1858年創業)の創業者の事績をもとに、近江商人の教えを見ていこう。


伊藤忠創業者、初代伊藤忠兵衛の生涯

伊藤忠の創業者、初代伊藤忠兵衛は1842年(天保13年)、滋賀県犬上郡豊郷村八目で生まれた。天保年間は、江戸幕府の将軍で言えば「徳川家斉」「徳川家慶」の時代。逼迫した幕府財政の再興を目的に「天保の改革」が行われた時期で、時代は幕末へと向かっていく。

伊藤家は、いわゆる「近江商人」の家だった。近江商人とは、近江を本拠に他国を行脚する商人の総称で、大坂商人、伊勢商人と並び「日本三大商人」と称された。近江は海に面しない国だが、琵琶湖の水上交通や、隣国の若狭の小浜、あるいは越前の敦賀を経由しての北前船による交易などもさかんだった。

近江商人の商いは、上方(関西)の商品を地方へ、地方の商品を上方へ販売しながら持ち帰る「持ち下り」というスタイルで、行商から卸売り、全国展開の「諸国産物廻し」、さらに両替商へと発展していった。

伊藤忠兵衛は1858年 (安政5年)、わずか15歳で行商を開始する。伊藤忠はこの年を創業年としている。

忠兵衛の販路は九州まで及び、のちに大阪東区で呉服太物商「紅忠(べんちゅう)」を開業。1884年(明治17年)には紅忠を「伊藤本店」と改称。文明開化の波に乗り、海外貿易も手掛けるまでになった。 

1903年(明治36年)に初代伊藤忠兵衛は没したが、次男精一が家督を相続し、二代目伊藤忠兵衛を襲名。明治・大正から戦争の時代に向けて、会社組織を強固にしていった。


近江商人の経営哲学「三方良し」

近江商人の経営哲学として「三方良し」という考え方が知られている。三方良しの三方とは、「売り手」「買い手」「世間」のことだ。

伊藤忠の創業者、初代伊藤忠兵衛は熱心な浄土真宗の信者で、「商売は菩薩の業、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの」と三方良しの精神を説いた。

「売り手と買い手が満足するだけでなく、世間に貢献できる商売こそがよい商売」という三方良しの考え方は、昨今のCSR(企業の社会的責任)重視の経営にもつながるだろう。


「世間あっての商い」という感覚

近江商人を代表とする江戸時代の商人は、全国をめぐり、人と人との営みの中で商売を発展させていった。それだけに、「世間あっての商い」という感覚も強く、「三方良し」のような哲学が生まれたのだろう。

また、一般的な商家では、年端のいかない子どもを引き取って丁稚(でっち)として働かせる代わりに、一人前の商人として育てる研修機関の役割も担っていた。こうして育てられた従業員の中からは、番頭として経営者を支える者や、経営者の親族と結婚し後継者になる者も出た。商人たちは、商売の永続性を重視しており、こうして社会に貢献することで事業の継続を図ったのだ。このような事業の永続性を支える仕組み作りや商売哲学が、日本を世界一の長寿企業輩出国に導いたのだろう。


「三方良し」でCSRを意識した経営を

昨今、CSR経営に関する議論が盛んになっている。ただ、テクノロジーの発展やグローバリゼーションが進む現代のビジネス環境は複雑化し、自社の事業が社会の一部であると意識する場面は少ないかもしれない。また、事業の最大目的は「株主価値の最大化」だという価値観も強まりつつある。

一方で、企業が社会の一端である以上、社会的な意義や貢献を無視することは不可能だろう。環境への影響や消費者対策、労働慣行など、組織マネジメントと社会的課題の解決は切っても切り離せないからだ。

CSRを意識した経営を志向するならば、一度日本のビジネスの原点に立ち返り、「三方よし」の近江商人の教えを紐解いてみるのもよいかもしれない。

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