和菓子献上2度の誉れ高き新潟の老舗。受け継がれる「高い技術を守る熱意」。

株式会社百花園
代表取締役社長
太田 等

 今からちょうど150年前。明治維新が起こり、日本の歴史が大きくうねり始めた頃。時の明治天皇は新しい国のかたちを広く人々に知らしめるべく、巡幸(じゅんこう)と呼ばれる全国行脚を行いました。巡幸先ではその地の名物や産品が献上され、その命に預かることは末代までの名誉とされたと言います。

 その明治天皇巡幸において一度ばかりか2度も和菓子を献上した腕利きの和菓子職人が、新潟にいました。彼の名は、太田新太郎。明治11年に新潟で、14年には山形県酒田で、それぞれ和菓子を献上しました。噂はたちまち広がり人気の職人となった彼は、明治15年、新潟で一軒の店を構えます。これが、今年で創業136年を数える和菓子舗・百花園のスタート。その高い技術は、太田家のひとつのアイデンティティーとして、今も大切に受け継がれています。

 しかし、戦前~戦中の経営はピンチの連続。現社長のお父様にあたる三代目が後を継ぐ決意をした頃、事業はまさに風前の灯火だったと言います。危機を乗り越える原動力となったのは、誉れ高き初代・新太郎の技術を途絶えさせてはいけないという強い職人魂。三代目のその挑戦と、技術の継承、また次代に向けた取り組みについて、四代目・太田等社長にお話をうかがいました。

初代・新太郎の誉れを受け継いだ三代目の決意

中学卒業後に養子として太田家に入った三代目が家業を継いだのは、昭和12年のことでした。しかし、3年ほどで戦争の為に中国へ出征し、シベリアでの抑留を経て昭和24年暮に新潟に帰って再スタートする迄に、9年もの中断がありました。
二代目はその間に死去、和菓子作りの教えを乞うことも出来ませんでした。

三代目とは言っても、まったくのゼロから出発したような状況だったと思います。私もよく仕事場に入っては、父がお菓子を作る様子を見ていました。私をおぶいながら餡を練っていたこともありましたね。お菓子の図案を書く姿も憶えていますし、四六時中、和菓子のことを考えていたんだと思います。そして、作ること以外はすべて母の仕事。私たちを育てながら、販売から帳面まで、母は店のあらゆることをこなしていたようです。

当時の新潟は和菓子のレベルがかなり高かったようですが、父はその中でも特に技術の高い職人のグループに入れてもらい、勉強をしたそうです。そのうち品評会で賞を頂けるまでになって、中でも4年に1回開催される全国菓子博覧会では、昭和36年の第15回大会で式菓子部門の最高賞を、昭和40年の第16回大会では上生部門で副総裁賞を頂いています。とにかく、短い期間でものすごい技術を身につけたようです。

おそらく当時の父には、初代の歴史を受け継ぐ者としての決意があったんだと思います。いいものを作らなくてはいけない、途絶えさせてはいけないという思いが、その熱意につながったんでしょうね。いくら素質があったとしても、想いがなければそこまで技術を身につけることはできなかったろうと思います。」

まるで初代が献上和菓子で名を上げたのと同じように、三代目も数々の受賞により職人としての名を上げ、その名が広く知られるようになります。やがてお店には、弟子入りを志願する若者がやって来るようになりました。

「店舗の2階が我々の住まいでしたが、その一角の狭い部屋にお弟子さんが5~6人寝泊まりして、朝早くから夜遅くまで仕事をしていました。私もよく遊んでもらったりしてね。休みになると映画に連れて行ってもらったり、彼らが実家に帰る時に一緒についていったり、楽しませてもらいました。

しかし、工場での父は非常に厳しかったです。お弟子さんが思ったように作れないと「ダメだ」と言って捨ててしまう。ちょっとかわいそうだなと思いながら見ていました。」

堅実な父のおかげで失敗しなくて済んだ

三代目の努力により百花園は見事に再興。太田社長も、大学を卒業後、横浜でのスーパー勤務や東京の洋菓子店での修行を経て、26歳で新潟へ戻り、職人として働きながら経営面にも少しずつ関わっていきます。

「その頃は景気が良く、うちだけではなく他のお菓子屋さんも多店舗化を始めた時代で、デパートや新しいスーパーの中に出店することが時代の流れになっていました。その頃のスーパーはものすごい集客力でしたし、私自身もスーパーで働いた経験がありましたから、積極的に出店したいという気持ちがありました。

しかし父はそうではなく、なるべく地道にいきたいという考えで、ずいぶん反対されました。父はとにかく頑固で、ダメだと言えば絶対ダメ。結局は数店のスーパーに出店して、今も2店がそのまま出店を継続していますが、堅実な父のおかげで大きな失敗をしなくて済んだかなと思います。」

社長に就任したのは1999年、48歳の時。三代目もまだまだ現役で腕を振るう中、突然世代交代を告げられたと言います。最初は不安だったという太田社長。倫理法人会に入会し、先輩や同世代の経営者との交流の中で経営哲学や社長としてのあり方を学んだことで、従業員の育成や長く勤めてもらう環境づくりの術を身につけたと言います。本店には勤続50年以上の女性従業員も在籍。そうしたスタッフの存在が何よりありがたいと語ります。

一方、就任以来のご苦労を聞くと、社長は「今」がまさにその時だと言います。

「今、新潟の和菓子業界は非常に大変な時代を迎えています。かつての新潟は、冠婚葬祭で盛んにお菓子が使われていましたが、最近ではかなり数が減っていますし、金額も下がってきている。コンビニがお菓子に非常に力を入れていることも影響していますし、スーパーも業態としては下降気味ですよね。全国的な流れだとは思いますが、特に新潟はそれに冠婚葬祭の需要低下が追い打ちをかけている状況です。」

5代目が取り組む新しい和菓子の販売スタイル

長男・新太郎さん

その中でひとつの大きな光となっているのが、長男の新太郎さんの存在。初代の名であり二代目もその名を継いだ、百花園にとって由緒ある名前を、3代ぶりに受け継ぎました。

「男らしくて呼んでいただきやすい名前にしようというところから、太郎の上に何か一文字つけて“○太郎”という名前にしようと思って、私にとって昔からなじみのある“新太郎”という名前も候補にしたわけです。そしたら、父がずいぶん喜びましてね。

だから、この子をお菓子屋にしようとか、そういう想いでつけたわけではないし、本人にもそういう話は一切しなかったですね。息子も、自分の会社の初代が自分と同じ名前だったなんて、ずっと知らなかったと思います。」

しかし、5代目新太郎さんはすでに製造の最前線で父の背中を負い、さらには経営の次のステップを見据えた取り組みにも挑み始めています。

「長男は今、和菓子のケータリングという、これまでどこにもなかった事業に取り組んでいます。最初は正直“こんなもの商売になるのか”と思いましたし、大きな利益につながっているかというと、まだまだこれからですけど、継続して発注して下さるお客様もいらして、可能性がないわけではないなという気持ちになってきました。楽しみというか頼もしいというか、そういう気持ちに私も少しずつ変わってきています。」

やり方は違うけれど「これもいいのかな」と

本店で販売業務に携わる奥様と。

新太郎さんは、ご自身が見据える会社の将来について、こんなふうに語っています。

「おいしいことはもちろん、丁寧さ、技術の高さを大切にするという、うちのお菓子に対するベースの考え方は、もちろん変えるつもりはありません。ただ、これまでは代々が経営者であり職人でもあったわけですが、私はいずれは職人から一歩引いて経営に専念したいなと思っています。そのほうが今の時代に合っていると思うんです。」

新太郎さんの頼もしい言葉に目を細めながら、太田社長はこう締めくくって下さいました。

「私の場合は、どうしたら父を助けられるかということを考え、父の考えを尊重し協力して盛り上げようと、そんな思いでやっていました。ですから、そういうことを新太郎にも望んでいたんですけど、新太郎は入ってきた時から“このままではだめだ”と言うわけです。私も“何を言ってるんだ”と。今までやってきたことをきっちり見てから言ってくれと言って、ずいぶんやり合いましたね。

でも、帰ってきて5~6年ぐらいたって、こういう形もいいのかなと思うようになりました。やり方は私とずいぶん違って、自分のやりたいことをどんどん見つけてやっているわけですけど、彼なりにいろいろな人と関係を作り、そういうところからまた芽が出てくる可能性もあるんじゃないかと。だから、ある程度まかせてもいいのかなと、最近はそんなふうに思いはじめていますね。」

(取材・文 髙橋晃浩)

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